版籍奉還は明治3年(1870)に行われ、尾張は名古屋および犬山の2藩が名古屋県となった。藩主は名古屋藩知事となった。旧藩の実収入高の10分の1が知事家禄と定められ、その収入を保障された。元藩主は過去に作った莫大な借財の返済に迫られることもなくなった。だが、藩士や商人達には厳しい現実が待ち構えていた。
藩の債務を引き継いだ新政府は明治6年(1873)、償還方法を公示したが、内容は極めて劣悪であった。天保14年(1843)以前の藩債は切り捨てられた。弘化元年(1844)以降の分は公債となし、明治元年以後に50カ年賦、無利息で償還する内容であった。
調達金を割り当てられた債権者の中には、世話人だった関戸家や伊藤家に返済を求めるものもいた。また混乱したのは貨幣である。当時は、妖しげな貨幣が流通していた。太政官札や薩摩藩の出していたお金だった。太政官札とは、新政府が財政難を切り抜けるために発行した不換紙幣で、「金札」とも呼ばれた。不換紙幣に国民が慣れていないため、流通は困難を極めた。また薩摩藩が軍資金として製造した粗悪な二分金も流通していた。この粗悪な貨幣のため、100両の支払いをするのに、200両とか250両の金札が必要だった。このような貨幣が流通していたことで、インフレが進展していた。
この明治元年という年は自然災害にも見舞われた。江戸城無血開城が実現して喜んだのも束の間、同年5月、豪雨によって入鹿池(現・犬山市)が破堤した。流れ出た濁流が五条川に沿って南下し、丹羽郡、春日井郡、中島郡、海東郡の村々を次々に飲み込みながら、伊勢湾に流れ込んだ。この時は、庄内川でも相次いで破堤し、右岸の高蔵寺村から味鋺村一帯が冠水し、瀬古村、幸心村、小田井輪中でも大きな被害が出た。
こんな状況だから、明治時代に入り、多くの御用達商人が閉店、廃業を余儀なくされた。明治になると、転業や都市への移住が自由になる。近在派と呼ばれる新興商人達が活躍を始めるのも、幕末からである。昔ながらの御用達商人の多くが没落する中で、新興勢力が台頭する世代交代を迎えるのである。[参考文献『名古屋商人史』(林董一 中部経済新聞社)]
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