第1部 幕末の部/その12、江戸城無血開城

その時、名古屋商人は

明治維新を迎えても続いた商人の苦悩

 版籍奉還は明治3年(1870)に行われ、尾張は名古屋および犬山の2藩が名古屋県となった。藩主は名古屋藩知事となった。旧藩の実収入高の10分の1が知事家禄と定められ、その収入を保障された。元藩主は過去に作った莫大な借財の返済に迫られることもなくなった。だが、藩士や商人達には厳しい現実が待ち構えていた。

 藩の債務を引き継いだ新政府は明治6年(1873)、償還方法を公示したが、内容は極めて劣悪であった。天保14年(1843)以前の藩債は切り捨てられた。弘化元年(1844)以降の分は公債となし、明治元年以後に50カ年賦、無利息で償還する内容であった。

尾張藩の藩札尾張藩の藩札 左(表)右(裏)
『岡谷鋼機社史』より。裏には連帯保証人の
岡谷をはじめとする富商の名が連なる

 調達金を割り当てられた債権者の中には、世話人だった関戸家や伊藤家に返済を求めるものもいた。また混乱したのは貨幣である。当時は、妖しげな貨幣が流通していた。太政官札や薩摩藩の出していたお金だった。太政官札とは、新政府が財政難を切り抜けるために発行した不換紙幣で、「金札」とも呼ばれた。不換紙幣に国民が慣れていないため、流通は困難を極めた。また薩摩藩が軍資金として製造した粗悪な二分金も流通していた。この粗悪な貨幣のため、100両の支払いをするのに、200両とか250両の金札が必要だった。このような貨幣が流通していたことで、インフレが進展していた。

 この明治元年という年は自然災害にも見舞われた。江戸城無血開城が実現して喜んだのも束の間、同年5月、豪雨によって入鹿池(現・犬山市)が破堤した。流れ出た濁流が五条川に沿って南下し、丹羽郡、春日井郡、中島郡、海東郡の村々を次々に飲み込みながら、伊勢湾に流れ込んだ。この時は、庄内川でも相次いで破堤し、右岸の高蔵寺村から味鋺村一帯が冠水し、瀬古村、幸心村、小田井輪中でも大きな被害が出た。

 こんな状況だから、明治時代に入り、多くの御用達商人が閉店、廃業を余儀なくされた。明治になると、転業や都市への移住が自由になる。近在派と呼ばれる新興商人達が活躍を始めるのも、幕末からである。昔ながらの御用達商人の多くが没落する中で、新興勢力が台頭する世代交代を迎えるのである。[参考文献『名古屋商人史』(林董一 中部経済新聞社)]

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第1部 幕末の部

その1、龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えた時の名古屋の富商の顔ぶれ
生き残った商人はどこか?
生き残りの秘訣は土地への投資?
名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”
その2、ペリー来航
その時、名古屋商人は・・・
いとう呉服店十三代当主祐良が写経に励みながら幕末を乗り切る
「笹谷」という屋号だった岡谷鋼機
この頃創業した会社・「頭痛にノーシン」株式会社アラクス
この頃創業した会社・中外国島
名古屋の渋沢栄一と呼ばれる奥田正香が誕生
その3、安政の大獄
その時、名古屋商人は・・・
安政の大地震で被災した、いとう呉服店上野店
この頃創業した会社・藤桂京伊株式会社
この頃創業した会社・労働安全衛生保護具のシマツ
その4、吉田松陰 松下村塾を開塾
その時、名古屋商人は・・・
安政3年になると商人達も悲鳴
その5、篤姫、将軍家定に嫁ぐ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・秋田屋
その6、安政の大獄から桜田門外の変へ
その7、龍馬脱藩へ
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・繊維の信友
この頃創業した会社・師定
この頃創業した会社・角文
その8、新撰組、池田屋事件
その時、名古屋商人は・・・
この頃創業した会社・タキヒヨーから独立した瀧定
その9、高杉晋作決起
その10、薩長同盟成立
その時、名古屋商人は・・・
十四代目当主祐昌の時代に入ったいとう呉服店
岡谷鋼機が職務分掌「亀鑑」制定
その11、大政奉還の大号令
その時、名古屋商人は・・・
岡谷鋼機「妻子を失い失意のどん底になった兄」に代わって頑張った九代目当主
豊田佐吉、誕生する
その12、江戸城無血開城
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えても続いた商人の苦悩

第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー