安政2年(1855)10月2日の夜に起きた大地震によって火災が発生し、いとう呉服店上野店は全焼してしまった。
名古屋で知らせを受けた当主の伊藤祐良は、ただちに訓諭書を出して上野店の店員を励ました。訓諭書で祐良は、質素倹約を第一に、犠牲的精神を持って本・支店が一体となって、気長く再建に努めなければならないと説いた。上野店は早くも同年の12月1日、仮店舗で営業を再開した。物資が欠乏していたため、開店当日から大賑わいだった。
上野店の再建は、まさに当主から店員まで一丸となって取り組んだ。店を再建するための木材は、全部名古屋で切り組みして、海路で江戸に運んだ。出入り大工であった竹中組は江戸で組み立てを行い、あっという間に再建した。ちなみに竹中組は、織田信長に仕えていた大工といわれている。明治以後も松坂屋の建築はほとんど竹中工務店が請け負っている。
安政3年9月には店、台所、蔵などが完成した。落成記念の大売り出しの引札(商品の宣伝や開店の披露などを書いて配る広告の札)を5万5000枚配布するという、当時としては大がかりな宣伝を行った。この開店売り出しは、江戸中で大きな話題となり、期間中大勢の客が詰めかけた。商い高も、3日間で合計3050両に達した。上野店は、天保7年(1836)、安政元年、万延元年(1860)と、相次いで隣接地を買収して発展した。[参考文献『名古屋商人史』林董一(中部経済新聞社)・『揚輝荘と祐民 よみがえる松坂屋創業者の理想郷』(揚輝荘の会 風媒社)]
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