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第1部 幕末の部/その1、龍馬暗殺

その時、名古屋商人は

生き残りの秘訣は土地への投資?

 明治の世になっても生き残っている商人は、なぜ生き残ることに成功したのか? 著者は、そんな興味を抱いていた。同じく林董一氏の『名古屋商人史』には、土地所有の上位陣のリストも載っていた。明治15年(1882)頃のものだから、前述のデータとほぼ時を同じくする。

 そのリストによると、地価が最も高い土地を所有していたのは、関戸守彦で「535町84反」という面積の土地を持ち、それが「16万9千683円」の地価に値するとのことだ。「1町」は「9千900平方メートル」である。「535町」とは「約5・3平方キロメートル」である。名古屋市東区は、7・7平方キロメートルである。旧清洲町で5・2平方キロメートルである。いかに広大な土地を持っていたかが分かるだろう。

 この土地所有の上位陣(敷地面積の大きさ順)の氏名を列挙しよう。

1位=神野金之助 2位=関戸守彦 3位=伊藤次郎左衛門 4位=伊藤忠左衛門 5位=岡谷惣助 6位=武山勘七 7位=中村次郎太 8位=小出庄兵衛 9位=加藤彦兵衛 10位=岡田徳右衛門

 この10人の土地を合計すると、「2千223町」になる。それは「22・23平方キロメートル」である。それは例えば、天白区(21平方キロメートル)、尾張旭市(21平方キロメートル)、尾西市(22平方キロメートル)に匹敵する。つまり大地主が土地の多くを独占していたのだ。

 この土地持ちの人名をみてみると、明治13年の「名古屋の長者番付」とほぼ同じ顔ぶれになる。つまり「土地を持っている人=富商」と定義できるほど、土地が重要な要素を占めていたのだ。

 名古屋の商人達は、なぜこれほどまでに土地を所有するに至ったのか? 『名古屋商人史』にはこう書かれている。〈『枢要雑書』が旧藩時代、中等以上の商工業者にあっては、その資産を十分し、うち4分を営業にあて、6分を土地あるいは控家屋などに投じて、その地代、家賃を取得すること、あたかも世襲禄のごとくで、明治の今日でも同様だ、とのべているとおり、名古屋商人達は、どちらかといえば、その資金を事業よりも、土地家屋に投資して、地代や家賃で生計を立て、利殖をはかる、堅実ながらも消極的方法をとるきらいがあった〉

 江戸時代は新田開発が進んだが、その資金は商人が拠出していた。当時は「土地」が最も安全な投資対象であったからだろう。

 ちなみに、1位になった神野金之助だが、豊橋の神野新田を開拓した人物である。

 神野金之助は嘉永2年(1849)現在の海部郡八開村で生まれた。15歳で家督を継ぎ、23歳の時に長兄の養子先であった富田家の紅葉屋を経営する。輸入業、金融業、土地経営、山林事業と経営を拡大し、明治26年には豊橋の神野新田の開発に乗り出した。巨額の費用を投じて新田・用水の修復にあたり、明治29年これを完成させた。

 もっとも、前述の土地長者ランキングは、明治15年のものだから、神野新田を開拓する前から、広大な土地を持っていたことになる。

名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”

 幕末という非常時をどうやって生き抜いてきたのか、名古屋商人に学ぶとすれば、次のようになるのではないか? 著者がまとめた「生き残り策」である。

第1カ条 自分の城は自分で守る
名古屋商人は、いわゆる中央の政治との結び付きをあまり持とうとしなかった。だから明治になってからも政商となって活躍する人がほとんどいなかった。そのお陰で名古屋の発展が遅れたという指摘もあるほどだ。名古屋商人はいわば「自分の城は自分で守る」主義である。

第2カ条 本業専守
コツコツという言葉ほど、名古屋商人にふさわしい表現はないだろう。地味で堅実といわれる通り、背伸びせず、分相応のやり方でいくのが名古屋商人だ。商いを飽きずに続けるのが名古屋流だ。

第3カ条 時代の変化を先取りした挑戦
保守的と指摘される時もあるが、逆に進取の気性に富んだ人が多いのも特徴だ。開国後に外国製の綿が入ってくると、すぐその輸入ビジネスで一旗揚げる者が出てきたように、ここぞという局面になると積極果敢に挑戦する。攻撃こそ最大の防御であることを知っている。

第4カ条 資産は現物「土地」で持つ
幕末は、金が外国に流出してしまった。銀は価値が下がったために、銀を持っていた者は財産を減らした。また、幕府は貨幣に含まれる金を減らして何度も改鋳したために、貨幣の信用が落ちてしまった。各藩が出していた藩札は、兌換準備金がないので空手形同然だった。
こうした中で、名古屋商人が執着したのは土地だった。土地ならば、価値があまり下がらないからだ。富商が明治の世まで生き残った最大の要素は、この土地であったと考える。非常時になれば、財産は現物で持つべきだということを教えてくれる。現代なら、土地とか金が相当するだろう。

第5カ条 派手な暮らしをせず
金持ちでありながら、決して派手な暮らしをしないのが名古屋商人の特徴だ。質素倹約がいわば共通の家訓である。

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第1部 幕末の部

その1、龍馬暗殺
その時、名古屋商人は・・・
明治維新を迎えた時の名古屋の富商の顔ぶれ
生き残った商人はどこか?
生き残りの秘訣は土地への投資?
名古屋商人に学ぶ“生き残りのための5カ条”
その2、ペリー来航
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第2部 江戸時代初期の部

第3部 江戸時代中期の部

第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー