安政5年(1858)
その6、安政の大獄から桜田門外の変へ
――その時名古屋は・・・慶勝が隠居謹慎となり、コレラも流行する
幕府の筆頭老中堀田正睦は、安政5年(1858)2月、孝明天皇からアメリカとの通商条約締結に関して勅命による許可を得るため上洛するが、天皇から拒絶された。
江戸に戻った堀田は将軍家定に、越前藩主松平慶永を大老にして、幕府をまとめるよう進言した。ところが家定は同年4月、南紀派の彦根藩主井伊直弼を大老に任命した。南紀派とは、将軍の世継ぎに紀州藩主徳川慶福(のちの家茂)を推すグループである。これに対し、前水戸藩主徳川斉昭の子、一橋慶喜を推すグループを「一橋派」と呼んだ。井伊は、同年6月、朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を締結した。条約では、「下田、函館のほかに横浜、長崎、新潟、神戸を開港する。江戸と大坂を開市とし、貿易の中心とする」ことが決められた。
慶勝はこれに対し、斉昭らとともに江戸城へ不時登城(今風にいえば出社拒否)するなどして井伊に抗議した。同年7月、将軍家定が35歳で亡くなった。第十四代将軍には徳川家茂が就いた。この頃からいわゆる安政の大獄が始まる。井伊直弼は、反対勢力の粛正に乗り出し、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、慶勝と松平慶永は隠居謹慎とした。
吉田松陰は同年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知ると、幕府打倒を目指し、老中首座である間部詮勝の暗殺を計画した。だが、門弟の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らはこれに反対した。長州藩は、松陰を危険人物とみなし、投獄した。松陰は老中暗殺計画を自供し、後に江戸へ送られた。同年9月から翌年にかけて幕府は反対派を次々と逮捕・投獄し、安政6年(1859)の8月から10月にかけて、厳重な処分が相次いだ。吉田松陰、橋本左内など多数の者が死罪となった。[参考文献『幕末史』(半藤一利 新潮社)]
慶勝が隠居謹慎になったという報せは、尾張国内にすぐ伝わった。尾張の人々は、七代藩主宗春が幕府から隠居謹慎を命じられて以来の出来事に、尾張藩はどうなるのだろうとささやきあった。既に、開港や将軍継嗣問題をめぐっての対立の様子は藩内で知らぬ者はなかったが、それにしても御三家筆頭の大名が処分されるとは、想像だにしなかったに違いない。
慶勝の後任は、慶勝の弟の茂徳である。茂徳は高須藩から入って跡目を相続し、十五代藩主となった。この異例の藩主交替は、尾張藩内に亀裂をもたらした。以後、尊皇攘夷派と佐幕開国派との間で対立が続くことになった。藩内は、慶勝を支持する攘夷派の金鉄組が排除され、代わって慶勝の藩主擁立に反対したふいご組が支配することになった。しかし、慶勝は人望があった。藩内の50カ所の庄屋が、幽閉された慶勝の無事を熱田神宮に祈願することまで行われた。
開港前後の海防問題は、破綻をみせていた藩財政に莫大な軍事費を強いることとなった。藩士に対しては、献上米を課す上米や知行や俸禄を削減する半知などの形で給与を削減した。商人に対しては、御用金を課した。こうして開港を契機とする政治・経済的変動は、諸階層に動揺と混乱をもたらすこととなった。[参考文献『尾張藩幕末風雲録 血ぬらずして事を収めよ』(渡辺博史 ブックショップマイタウン)・『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]
幕府の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月3日、雪に埋もれる桜田門外で、水戸藩士によって暗殺された。46歳だった。この後に、それまで処分を受けていた徳川慶勝、斉昭、一橋慶喜、松平慶永などが赦免された。ただし斉昭は既に死去していた。
安政6年(1859)夏頃から、海外貿易が始まった。外国人は、当時日本では金より銀が重んじられていたことに目を付け、積極的に金を買い付けた。また生糸や茶、海産物に加え、米や麦も盛んに輸出されたので、米価が高騰し、日本経済は大混乱に陥った。このような経済情勢の中で、外国人憎しの風潮は強まっていた。この頃から外国人を狙った攘夷運動が始まる。万延元年12月、攘夷派の薩摩藩士がアメリカ公使館の通訳官でオランダ人のヒュースケンを暗殺した。[参考文献『幕末史』(半藤一利 新潮社)]
井伊大老が襲われた万延元年(1860)の5月、またもや暴風雨が尾張を襲った。暴風雨のため河川が氾濫し、伊勢湾を高潮が襲った。清須、鳴海、佐屋、横須賀などで堤防が決壊し、被害は12万石にも達した。この洪水により、米価が暴騰した。記録によれば、お助け小屋などでの米の施しは文久元年(1861)まで続き、60万人以上の人が施しを受けた。
このようにすさんだ世相の中で、尾張藩では攘夷派と佐幕派の対立が激化していく。[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]
日本で最初のコレラが発生したのは文政5年(1822)であった。これまでとは違う症状の病気というくらいで、病名は付けられていなかった。この時は日本だけでなく、世界的にコレラが大流行した。最初の患者が見つかったのは九州で、流行は東海道までで終息した。
安政5年(1858)から再びコレラが猛威を振るう。この時は、九州長崎で発生し、江戸まで広がったとも言われ、流行が終息するまでに3年もかかっている。
安政6年には名古屋でもコレラ患者が見られるようになる。当時、コレラ患者が出ると、あっという間に町中に広がり、一家全員が枕を並べて臥せったり、道に這い出して死んでいくものもあったという。魚がコレラの原因だとされたため、魚屋や料理屋は商売上がったりとなり、代わりに売れたのが卵や野菜であった。また葬具屋は大工に棺桶を作らせなければならないほど、死者の数が多かったと言う。その後もコレラは名古屋でしばしば流行した。
後に岡谷鋼機となる笹屋でも犠牲者が出た。笹屋の八代目の当主となる惣七は、妻きくとの間に2人の男児をもうけた。だが、文久2年(1862)、その年に蔓延したコレラに感染して、長男を亡くしてしまった。次に看病にあたっていた妻と生後間もない次男も亡くしてしまった。[参考文献『岡谷鋼機社史』]
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