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大正11年(1922)この年、「サザエさん」が誕生

<どえらい人物>矢田績が名古屋に戻り名古屋財界の〝ご意見番〟に

矢田績
矢田績

 矢田績(やだ せき)は三井銀行の名古屋支店長という肩書だが、いち銀行員という次元ではなく、中部経済界のリーダーの一人として大きな足跡を残した。

 矢田績は万延元年(1860)の生まれ。慶應義塾大学を卒業後、福澤諭吉門下として三井銀行に入った。秘書課長、深川・京都・横浜各支店長を歴任し、明治38年(1905)3月、名古屋支店長の辞令を手にした。

 矢田は、名古屋支店長として積極的な融資に乗り出したが、貸し出しをして単に金利を稼ぐのではなく、あくまでも社会に有益な事業や人に融資を行った。

 矢田が積極融資を行った人の中に、服部兼三郎がいた。矢田はのちに自著伝で、このように書き残している。

 そのころ名古屋紡績界に2人の偉ら者があった。1人は服部兼三郎氏と今1人は近藤繁八氏(2代目近藤繁八とは近藤紡績所の創業者)である。服部商店はマダ小規模であったが仲々の敏腕家で、将来大に為すあるの男と見込み私は相当の援助を与へたのである。或時或料亭で隣室に居た服部氏が相当酩酊して私の席に来て『将来私は大に遣る積りであるが三井銀行は全体如何程迄金融を与へて呉るか』との話。私は其時の貸付は僅か10万円以下であったが、『50万円までは融通しても差支へ無い』と答へて置いたところ、其翌朝直に来店して前夜の言質を捕へ『確に50万円迄貸て呉るか』と聞くので、『武士に二言は無い。貸しませう。併し君は50万円を必要とする迄事業を拡張し得るや。マア遣って見給へ』と答へて置いたのである。爾来奮闘努力、服部商店は日に月に発展し、従って貸付金額も無論50万円以上の大額に上ったのであった。(『懐奮瑣談』)

 このように矢田は、人物眼が半端ではなかった。社会に貢献しそうな人物を見いだすと、援助を惜しまなかった。

 矢田は資金面だけでなく、面倒見良く経営に対する助言も行った。また、時には人材の紹介にまで及ぶことがあった。『豊田佐吉傳』の中には、こんなエピソードも出てくる。

 独立自営の歩みをつづけていた頃、一夕名古屋で三井銀行預金者招待会が開かれた。一体が内気で、こういう公の席には出ない翁であったが、三井には初めて認めて貰った恩があるので出席すると、席上当時三井銀行名古屋支店長の矢田績氏が、翁の前へ坐って、いろいろ世間話の末
 『豊田さん、貴下は発明家としては立派な方ですが、これから独立自営で発明を完成なさらうとするには、どうしても金の心配をする人が必要ですね。つまり発明家には何の心配もせずに、上手に切り盛りして行く金銭勘定方が必要じゃないでせうか』
 と言った。
 翁は生来の無口の上、外交的辞令は少しも知らないので、その場は黙々として聞いていたが、翌朝早く矢田氏の家の門を叩く者がある。
 家人が起きて行くと、翁が門前に立っていて
 『早朝、恐れ入りますが、矢田さんにお目にかかりたいのです』
 という話。
 矢田氏が起きて会うと、翁は
 『昨晩貴下のお話をあれから帰ってとっくりと考へましたが、一々御尤もです。どうしても立派な金銭勘定方がほしいと思ひます。恐れ入りますが、貴下の御鑑定で、これはと思はれる方を、お世話下さいませんでせうか』
 矢田氏も知らず知らず対手の熱意に動かされて
 『よろしい。お世話いたしませう』
 と請合った。
 これがきっかけで、間もなく矢田氏は当時株屋さんだった村野時哉という人を、翁に世話したが、この人は非常に切れる人で、後年翁の財政的方面のふところ刀として、豊田の事業に尽した。
 財政方面で村野時哉氏、発明方面では翁の片腕といはれた鈴木利蔵氏、事業方面では児玉一造氏が帷幄の支援者だった。共に豊田王国を築き上げる上に役立った3つの偉材である。(『豊田佐吉傳』)

 このように名支店長として名を残した矢田だったが、大正4年に三井銀行監査役になり、名古屋を去って上京した。

 この矢田が銀行を定年退職すると同時に名古屋に戻ってきた。大正11年のことだった。矢田の関心は、まず名古屋財界の育成に向けられた。彼は、東区橦木町に建てた宏壮な邸宅に、近くに住む豊田一族の利三郎の訪問を度々受け、事業経営上の助言を求められた。

 もともと、自動織機の発明者・佐吉以来、三井とは因縁浅からぬ豊田グループのこと。矢田は、その都度、適切な意見を述べたばかりでなく、名古屋商業会議所顧問として、副会頭の利三郎を後援したりした。まさに名古屋財界のご意見番になった。

 矢田は大正14年、私財25万円(その後さらに20余万円を追加寄付)を投じて、財団法人名古屋公衆図書館をつくった。〔参考文献『懐奮瑣談』、『豊田佐吉傳』〕

その頃、豊田は…喜一郎が結婚へ

 外遊から帰国した豊田喜一郎を待っていたのは、人生の一大事としての結婚であった。

 喜一郎の結婚の世話をしたのは、児玉一造だった。一造が花嫁として勧めたのは、京都の飯田家4代目の飯田新七(飯田鉄三郎)の3女二十子であった。二十子の父、4代目飯田新七は進取の気象に富んだ人物であった。現在の滋賀県高島郡出身であった初代の飯田新七が、天保2年(1831)に「高島屋」の屋号で古着・木綿小売商を開業し、のちには呉服なども取り扱い、京都では最も名高い呉服商となった。

 喜一郎と二十子は大正11年(1922)12月に結婚した。

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この年、「サザエさん」が誕生
その頃、名古屋は 鈴木摠兵衛が推進? 〝むだせぬ会〟を設ける
その頃、世界は ワシントン軍縮会議で日本は主力艦保有率が英米の6割へ
その頃、名古屋は 東邦瓦斯株式会社が設立へ
その頃、日本は 銀行取り付け騒ぎの嵐
矢田績が名古屋に戻り名古屋財界の〝ご意見番〟に
<この年に誕生した会社>
セルロイド玩具から室内装飾メーカーヘ ワーロン

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