神社の縁日で売られる縁起物の「稲穂」(竹の先に天然の稲穂を紙テープで巻き付け、小判やサイコロ等を飾り付けたもの)の短冊や扇面がセルロイド製だったため、それを見て、これからは「セルロイドの時代だ」とひらめき、セルロイド玩具で創業したのがワーロンの創業者・渡辺喜代治だ。しかも創業したのは大正11年(1922)で16歳だったというから驚く。
喜代治は日露戦争の真っ最中だった明治38年(1905)に生まれた。渡辺家は、中区矢場町の「井桁屋」という屋号で江戸時代から続く商家で、玩具の製造販売業だった。だが、喜代治が5歳の時に父が亡くなってしまったので、母が細々と暖簾を守っていた。
喜代治は前津尋常小学校を出てから他へ奉公に上がった。16歳の時に奉公を辞めて家業に戻ってきたものの、母のやっていた仕事は内職の域を出ないものだった。将来どうしようかと思い悩んでいた時に目に入ったのが、一部がセルロイドだった「稲穂」であった。
喜代治はセルロイド製の玩具を作って創業する決意を固めた。大正11年、弱冠16歳だった。喜代治は苦心を重ねながら「稲穂」の開発に成功して、同年中に売り出した。「稲穂」の次は「セルロイド吊り風車」を製作して、ヒットさせた。
昭和に入ってからは、喜代治の作る玩具は地元松坂屋をはじめ全国小売店で販売されるまでになった。昭和11年(1936)には現本社の中村区千原町で工場を建てた。だが、その後日本は戦争に突入する。戦時中は喜代治も徴用され、愛知航空機(現・愛知機械工業)で働いた。そして昭和20年の空襲で自宅兼工場も全焼した。
敗戦になると、喜代治はすぐ再建に乗り出した。昭和21年に自宅に隣接した防空壕跡地に7坪の工場を建て、渡辺セルロイド工業所を立ち上げた。玩具は平和産業として認められていたので、材料の配給も受けやすかった。喜代治は大ヒット商品「オルゴール入りダブルメリーゴーランド」を作り、昭和23年から輸出を開始した。
こうして玩具メーカーとして戦後に発展させた喜代治だったが、新たな試練が訪れた。セルロイド製玩具は燃えやすいので安全性の問題があるということで、アメリカが輸入を禁止したのだ。これに伴い国内でも取り扱いの中止が広まり、同社は窮地に追い込まれた。
存続の危機に直面した喜代治と息子の豊氏(現・会長)は、セルロイドに代わる素材として塩化ビニールの研究をした。結局、塩化ビニールを玩具に使うことはできなかったが、当時専務だった豊氏が研究のため購入したプレス機を何かに活用したいと考えた結果、和紙と塩化ビニールを組み合わせた商品の開発につながった。豊氏は、「集中力・開発力は父譲り」と回想するように父喜代治以上に開発に没頭した。ここに第二創業者としての片鱗を見る。
塩化ビニールと塩化ビニールとの間に和紙を貼り合わせる。そうすることで、和紙の風合いの樹脂製品が誕生した。「ワーロンシート」の誕生だ。昭和31年に特許申請し、昭和35年から発売した。
この開発のおかげで室内装飾素材メーカーに転身し、今日の発展につながった。現在では、3代目の敬文氏が社長を務めワーロンブランドとして展開している。
本社所在地は、名古屋市中村区千原町7‐21である。
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