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序文

大正時代の名古屋商人に学ぶ
生き残りの秘訣とは

第1、経営は一意専心で

 「山高ければ谷深し」という表現がピッタリ当てはまるのは大正時代の日本経済だ。ヨーロッパにおける戦争勃発のおかげで、日本には特需が発生して大好況が到来した。大もうけした商人の中には、成り金になり、飲めや歌えやの豪遊に明け暮れた人も…。

 だが、人々が「景気はまだまだ上向く」と思う頃は、実はもうピークを迎えているものだ。そのあとにやってきたのは戦争の終結と大恐慌。たちまち在庫は不良資産となり、信用不安が広まり、倒産に追い込まれた。昨日の大成功者も、今日は大失敗者となり、路頭に迷うことに…。

 経営にはいろいろな坂がある。上り坂もあれば、下り坂もある。そしてマサカの坂もあることを忘れてはならない。

 そのような動乱の時代を生き残った商人は、みな堅実経営に徹していた。世の中が好景気で浮かれていても、浮かれることなくコツコツと地道な商いに徹した。逆に世の中が不景気で落ち込んでいても、泰然として動じることがなかった。

 経営とは、地道な努力の積み重ねである。周囲に惑わされない一意専心の精神で、当たり前のことを、きちんと徹底的に行うような会社でありたい。

第2、身の丈に合った経営を

 鈴木商店という会社をご存じだろうか? 戦争の特需を見込んで大商いをして、大正時代に日本最大の会社になった。だが、戦争が終わると、たちまち経営不振に陥り、昭和初期に破綻した。

 このように一時的に成功して、栄耀栄華を極めたものの、その後すぐ落っこちる会社がある。派手な成功こそ要注意だ。破綻してしまうと社員や取引先に甚大な迷惑をかける。そのようなはた迷惑な経営者にはなりたくないものだ。

 成功か否かは、数十年も先になってみないとわからないものだ。経営者に対する評価は、死後ずっと後にならないとわからない。仮にスピードは遅くとも着実に歩む方が、結局正解だったということはよくある。身の丈に合った経営に徹したいものだ。

第3、ピンチはチャンスと受け止める

 関東大震災が発生した時、人々はパニックに陥った。流言飛語が飛び交い、多くの人々が冷静な判断能力を失った。

 そのような時に、経営者の真価が問われる。そのようなピンチの時に、大仕事をやってのける経営者がいた。松坂屋の伊藤次郎左衛門祐民だ。関東大震災の直後に、上野店で大安売りを実行して庶民の喝采を浴びた。これがその後の発展につながった。

第4、投機で浮利を追わず

 大正時代は米騒動が起きた。米の相場がつり上がったのは、商人による買い占めが一因だった。世の人々を苦しめながら、自分だけが利益をむさぼるというのは、商人道から外れている。いや、人間としての道から外れている。そのような悪徳商人が米騒動で襲撃されたのは、仕方のないこと。いわば自業自得だ。

 経営者は、皆にとって良い〝三方良し〟の精神でやっていくべきだ。

第5、仕事を通じての友情こそ財産!

 人望。それはどこから生まれてくるのだろうか? 
「人望」という言葉を聞いて、著者がイメージするのは豊田佐吉だ。豊田佐吉の生涯をたどってみると、人望という言葉の意味を考えたくなる。佐吉は、資本家がつくった豊田式織機という会社から追放されて無一文となった。栄生で紡織工場を建設することで再起を目指した。多くの人が冷たい視線を向ける中で、数人の盟友が援助を惜しまなかった。

 佐吉はなぜそこまで仲間から信頼されたのか? 発明の才能はさることながら、やはり佐吉の人間性が好かれたのだろう。佐吉翁は謙虚な人だった。

 佐吉は20代の若い頃、半田乙川の石川藤八という人に支援された。力織機の開発には資金が必要だったが、その支援のおかげで完成したようなものだった。

 佐吉はその後事業に成功し、著名人になった。だが、石川家を訪問する時は、離れた所で人力車を降り、そこから徒歩で訪ねていった。かつての支援者宅に人力車で横付けするようなことはしなかった。豊田佐吉とは、そんな人物だった。

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発刊に寄せて

名古屋市長 河村たかし氏
岡谷鋼機株式会社取締役社長
岡谷篤一氏

序文

「第一次世界大戦と震災」の大正時代
大正時代の名古屋商人に学ぶ生き残りの秘訣とは

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)