朝日工業株式会社。地味だが、堅実な岡崎市の土木会社である。その創業は大正時代ということになっていたが、実は明治時代の創業だったということがわかった。筆者の取材が契機になって新事実が判明した。
朝日工業は、これまで「朝日由太郎が『朝日組』を創業した。その創業年次は定かではなく、遅くとも大正5年(1916)には創業していたという意味で、そこを創業年次としていた」ということになっていたそうだ。だが、筆者の取材の申し込みを契機に、現社長の朝日啓夫氏が戸籍を調査した結果、事実と異なり、次のような新事実が判明した。
「創業者は朝日清三郎である。清三郎は生年不明だが、幕末の生まれで、明治中期に建築土木の請負業を名古屋で創業したようだ」
「二代目は清三郎の子の朝日由次郎だ(太郎は誤り)。由次郎は明治8年(1875)生まれで、明治の末に、愛知電気鉄道(現・名古屋鉄道)の鉄道敷設工事に従事した関係で、鳴海や有松など、東に鉄道が敷設されるに伴って東に向かうことになった。由次郎は、大正時代の初めに岡崎市の伊賀川の改修工事を請け負ったことがきっかけで、岡崎に定住することになった。由次郎は、昭和7年(1932)に逝去した。由次郎の本籍は、名古屋市中区南瓦町68番地(現・新栄1‐29、30)であった」
「三代目は、由次郎の子の清治だ。清治は明治30年生まれで、38歳で当主になった」
昭和の時代に入ると、戦時色が強くなり、岡崎はついに空襲で焦土と化した。だが、幸運にも戦火を免れることができた。そのため、戦後の復興も早く実現することができた。
清治は、昭和22年に、朝日工業株式会社に組織変更し、社長に就任した。清治は農業関連の土地改良工事に従事し、豊川用水などの整備に取り組んだ。豊川用水は、豊橋市をはじめとする東三河地域、渥美半島および静岡県湖西市を潤す用水路で、昭和24年宇連ダムを皮切りに国営事業として建設工事が始まり、昭和43年に全通した。だが、好事魔多し。清治は昭和30年に逝去してしまった。58歳だった。
そこで清治の長男の勲が急きょ、社長に就任することになった。勲はまだ32歳の若さであり、周囲には危ぶむ向きもあったようだ。だが、勲は行動力があり、先見性もあった。モータリゼーションの到来を見越して、昭和33年舗装工事部門を設置して、道路の舗装工事に注力した。この舗装工事は事業として伸び、企業基盤を築いた。また、愛知用水の整備という大きな事業にも参画した。愛知用水は岐阜県八百津町から知多半島南端の南知多町に至る水路で、昭和36年に開かれた。46年には、本社を現在地(敷地面積3千坪)に移転した。56年には、勲は建設技術向上の功により黄綬褒章を受章した。
その勲も、平成元年(1989)に逝去した。その後を継いだのが現社長の啓夫氏だ。時代はバブルに突入して、土地売買が盛んになるわけだが、啓夫社長は一切手を染めなかった。それは、先々代の清治から「バクチに手を染めるな」と厳しく言われていたからだったという。コツコツと地道に堅実に生きる姿勢が功を奏して、現在の発展につながっている。
このように5代に及ぶ歴史をもつ朝日工業だが、一貫しているのは土木工事を通じてインフラ整備を行い、社会に貢献するという姿勢である。啓夫社長は「過去を振り返ると厳しい時代があった。建設業は公共事業の予算カットで冬の時代に入り、特に平成15年頃は大変だった。だが、土木工事は世の中を良くする仕事であり絶対に無くならないという信念があったので続けてきた。これからは橋や高速道路の維持管理という仕事が増える。昭和40年代に造られたものの寿命がくるからだ。土木会社の役割も再評価される時代が来るはずだ」と語っている。
本社所在地は、愛知県岡崎市天白町字池田5である。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274