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大正4年(1915)芥川龍之介が処女作『羅生門』を発表

その頃、日本は…大戦景気が始まる

 「戦争は早期に終結するのではないか?」

 日本の経済界は、ヨーロッパでの戦争をそのように予測する向きが少なくなかった。だから、景気の先行きについても、消極的にみていた。そのうえ、大正4年(1915)は年始早々から、中国に対する「二十一カ条の要求」によって日中関係が悪化し、中国では日貨排斥運動が巻き起こり、対中国輸出が不振となるなど景気は足踏み状態にあった。

 この状態を激変させたのはヨーロッパ戦乱の拡大であった。大正4年も後半に入ると、ヨーロッパの戦乱は日本にとっては、まさに神風に転じた。それまで世界の工業生産の中心であったヨーロッパ全土が麻痺し、連合国側からは軍需関連品を中心に注文が殺到し始めた。

 そのうえ、日本同様に好況を迎えたアメリカに向けての輸出が激増した。開戦後に落ち込んだ生糸の売れ行きが復活して、相場は大正4年11月頃から急速に立ち直り、戦前相場を抜くに至った。当時輸出の主力であり、我が国の産業上重要地位を占める生糸の好況は日本経済を刺激した。

 また、従来ヨーロッパ品に頼っていたアジア諸国が在庫品に払底し、代用品を日本に求める傾向が表れた。

 本格的な「大戦景気」の幕開けである。日露戦争以降入超続きであった日本の貿易収支が、出超に転じたのもこの年からであった。日本全体を包んだこの熱気は、大正7年の大戦終結まで継続した。

〔参考文献『大正昭和財界変動史 上巻』〕

その頃、日本は…東京株式が乱高下

 大正4年(1915)の年末から、いよいよ「大戦景気」が始まった。

 11月30日、東京株式市場は立会開始と同時に前日の223円から一気に50円高、80円高と急騰。一転50円安となるなど乱高下を記録し、午前10時30分、東京株式取引所は12月3日までの立会停止を決めた。

 名古屋株式取引所でも、11月30日は売買高4万株と開設以来の最多を記録した。その後も活況が続き、12月24日までの間に9回、売買高激増のため後場を休会した。

 日本経済は第一次世界大戦の開戦当初、先行きの悲観論から一時不況に陥った。だが、ヨーロッパの交戦国からの軍需注文が殺到し、またアジアからヨーロッパ列強が後退したことで、この年の中頃より輸出が好転し始め、一躍、空前の「大戦景気」となった。

 株式市場も開戦直後の低迷を脱して上昇に転じた。年後半のロシア軍の敗退、中国の日貨排斥等から下押す場面はあったものの、預金利子の引き下げ、輸出の好調等から、株価は10月20日より市況が活気づき、南満州鉄道・日本郵船・紡績関係株などが思惑買いされて高騰、11月30日の乱高下となった。引き続き上伸して活況のうちに年を終わった。

 名古屋株式取引所でも、年間売買高は、365万7千株と名株創立以来の新記録となった。

 この戦争景気は、ヨーロッパにとっては悲惨だったが、日露戦争後に外債の返済に追われていた日本にとっては、まさに〝神風〟になった。日本は債務に苦しむ国だったが、大戦後の大正9年には27億円以上の債権国に生まれ変わった。

〔参考文献『名古屋証券取引所三十年史』〕

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

芥川龍之介が処女作『羅生門』を
発表
その頃、世界は 第一次世界大戦で毒ガスなど大量殺戮兵器が使用される
その頃、日本は 大戦景気が始まる
その頃、名古屋は 織物と陶磁器が1位を競う
婿入りして豊田グループの総帥になった豊田利三郎
<この年に誕生した会社>
バナナにこだわったフルーツ提案企業 名古屋バナナ加工

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