材摠木材(現・材惣木材)の鈴木家は、尾張藩の御用達商人だった。清須越しの商人で、堀川の東側の木挽町で材木商を営んできた。
鈴木家は、幕末から維新にかけて、財政が火の車であった。そこで7代目才造は、このうえは勤倹主義の後継者を得て家督を譲り、家業を一任して回復を図る以外に方策がないと悟った。八方手を尽くして養子を物色した結果、日比野茂三郎という青年を発見した。才造は、茂三郎を迎えて1年後の明治7年(1874)2月、これまた、御用達商人10人衆の一員、知多屋(現・名エン)、青木新四郎家から入れた養女と結婚させ、早くも家督を渡して、自身は前津の別荘龍門園に隠退した。
茂三郎は、針屋町の清須越しの商家で、酒造業の日比野家に生まれた。数え19歳で鈴木家へ移った彼は、1年間見習いとして、店員に交じって店頭に立ち、材木の品種や産地の判別などの方法を習得するに余念がなかった。家を継いで8代当主・鈴木摠兵衛になると、徹底的に家財整理を断行、永く家に秘蔵された名品の類をことごとく売却した。次いで家業を挽回させるため、森林や木材の知識を身につけようと、木曽谷の踏査を思いたった。ところが、資金がない。彼の深刻な苦悩を救ったのが伊藤次郎左衛門で、3千円の大金を借用することに成功した。
3千円を恩借した摠兵衛は、勇躍、実地調査に赴いた。前人未踏の木曽山中を究め、さらに飛騨の深山幽谷に分け入って越年するなど、4、5年の間辛酸を嘗めた。
ちなみに、この「針屋町の酒造業・日比野」の場所が、最近明らかになった。呉服町通と本重町通の交差する所で、うなぎの「いば昇」のあるブロックである。
摠兵衛は、家業たる材木商が順調な伸びを示し、基盤ができるにつれ、いろいろな会社の設立経営に乗り出した。関係した会社は次のとおりだ。
明治29年、明治銀行創立、取締役。
明治31年、愛知時計電機株式会社創立、取締役社長。
明治37年、名古屋倉庫株式会社(現・東陽倉庫)取締役。
明治39年、名古屋瓦斯株式会社(東邦ガスの前身)創立、取締役。
明治44年、福寿火災保険株式会社(日新火災海上保険の前身)創立、監査役。
また、明治24年、当時の名古屋商業会議所(現・名古屋商工会議所)議員に当選し、それ以降、大正10年(1921)健康を害して辞任するまでの30年間は連続して副会頭・会頭職にあった。
政治家としても活躍した。明治31年の衆議院議員選挙に初当選以来、明治45年の満期退任までの14年余にわたって国政の要職にあり、大正5年には多額納税貴族院議員にも選出された。
地元政界では、明治4年、第1回名古屋市会議員選挙に当選し、大正10年、任期満了で退職するまでの32年間は毎期選出され、その間、5期にわたって市会議長の要職を務めた。また、明治21年に愛知県議会議員に当選してから31年までに5回、延べ4年4カ月在任した。
摠兵衛は、大正14年の正月、ついに病臥の身となった。「死時に臨みて遺言の要なし、平生の言行即ち遺言なり」と養嗣子鈴四郎に語り、同年12月28日、70歳の生涯を閉じた。
故人は死に先立って従五位勲三等旭日中綬章を授けられた。明治39年勲四等旭日小綬章に始まる叙勲褒章は18回に及んだ。
他界後の大正15年、九代摠兵衛を襲名した鈴四郎は、東区鍋屋町の鋳物商で、朱子学研究家として知られた水野平蔵の三男である。
鈴四郎は大正7年、名古屋枕木合資会社の設立に関わり、代表取締役に就任したのをはじめ、10年、大日本木材防腐株式会社取締役、さらに12年設立の加福土地株式会社(名古屋港木材倉庫の前身)の取締役に選任された。
〔参考文献『名古屋商人史話』、『材摠三百年史』〕
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