「すごい綿布だ!」
藤野亀之助は、綿布を手に取り、その品質を確かめながら、感嘆の声をあげた。「織りムラがなく、耳の不ぞろいもなく、10反が10反とも寸分相違ない。これは従来の人力織機では作れない代物だ」
亀之助は当時、三井物産の綿布主任を務めていた。当時の三井物産は、殖産興業という国策を担った特別な会社で、綿布の最大の取扱量を誇っていた。その責任者だった男が亀之助だ。
亀之助は、早速調べて綿布を織った工場を突き止めた。それは半田市の乙川にあった乙川綿布合資会社だった。
乙川綿布合資会社は、明治30年(1897)の設立で、工場は31年に操業開始した。地元の有力者の石川藤八と佐吉による共同経営で、佐吉が発明した国産初の動力織機を導入して本格操業を始めた。
すごい綿布を見つけた亀之助は、早速動力織機をつくった豊田佐吉のもとを訪れた。佐吉は当時、武平町工場を建てたばかりだった。武平町工場は現・東区泉1丁目22(桜通のトヨタホーム栄ビルの道路を隔てて東側のマンション「ザ・センチュリーステイツ」)にあった。亀之助は、面食らう佐吉を前にして、興奮しながら話した。
「いや、驚きましたよ。あんな立派な綿布を織る動力織機が、この日本で発明されていたとは―。それにしても豊田さん、あなたはすごい才能の持ち主ですね。あなたはお国のためになることをされましたよ」と称えた。
当時の日本は、日清戦争の戦後処理に苦しんでいた。日本軍は清国で軍票を発行したが、それを正規の通貨に交換することを迫られていた。その軍票の回収に困った日本政府は、日本製の綿布を清国に輸出して外貨を獲得する方針を出した。だが、当時の日本の繊維産業は手工業の域を脱しておらず、動力織機の国産化が課題だった。そんな時勢の中で、佐吉の動力織機が発明された。
佐吉は、この「お国のために」という言葉がうれしかった。故郷では変人扱いされてきただけに、自分でもお国のためになっているということが何よりもうれしかった。
亀之助は、このあと、佐吉を東京に招待した。三井物産の本社では、益田専務理事が出迎え、新橋の料亭で豪勢な宴席を設けてくれた。それも上座に座らせてくれた。
三井物産から認められた大発明家…。このことは日本全国に喧伝されることになった。おかげで全国の有力者が武平町工場にやって来るようになった。井上馨、金子堅太郎、清浦奎吾、大隈重信ら、そうそうたる顔触れだった。
亀之助のおかげで三井との関係ができた佐吉だが、その後、井桁商会、そして豊田式織機と続いて苦渋を嘗めさせられることになる。だが、佐吉は個人的に亀之助という人物を信頼していた。アメリカとヨーロッパの視察を終えて、シベリア鉄道を通って帰国し、下関港に着いた時も、名古屋に帰る途中で大阪で下車し、まず亀之助に相談に行った。
佐吉は、工場の建設用地として栄生を選んだ。3千坪の土地を借り入れて、織布工場をつくることにした。人生最大の試練を迎えた佐吉だが、彼を見る世間の目は冷たかった。そんな中で、支援に乗り出したのが亀之助だった。亀之助は、なんと6万円という巨額の資金提供を申し出た。そのおかげで工場建設が進んだ。
亀之助は、明治、大正にかけて活躍した実業家だ。亀之助は慶応3年(1867)、埼玉県の生まれで、佐吉と同い年だった。
三井物産には、丁稚小僧として入社した。優秀だったために、商法講習所(一橋大学の前身)に通学させてもらい、英語を学んだ。その後昇進を重ね、明治39年には大阪支店長に就任した。退社後は大阪証券取引所の理事長にもなっている。
佐吉の弟佐助は、佐吉の死後に編纂された『豊田佐吉傳』の中で次のように述べている。
「感謝の意をこめた記録を留めて置きたいと思ふのであります。第1に銘記すべきは故藤野亀之助、故児玉一造両氏の心をこめた外部からの援助です。兄が小巾力織機発明以来藤野氏から賜った御尽力は多大であります」〔参考文献『豊田佐吉傳』〕
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