戦争が始まると、東海道本線が軍需物資の輸送に使われることになった。貨物列車は軍需優先となり、民間は使いにくくなった。このために物流が機能しなくなり、これには商人たちも困った。
名古屋の経済は、日露戦争が2月に始まると、軍需の分野で活況を呈しつつも、金利高騰・輸入超過などの景気抑制要因により、不況色を一掃するには至らなかった。5月には、美濃商業銀行が支払い停止になった。こうした周囲の厳しい経済事情の中で、名古屋は日本車輌製造、大隈麺機商会、愛知時計電機などが政府の要請により、軍需生産に着手し、また陶磁器でも軍需関連製品が多々あった。加えて、東京砲兵工廠が熱田に設置した兵器製造所が明治37年(1904)11月に事業開始した。おかげで名古屋は軍需が景気を下支えするようになった。〔参考文献『新修名古屋市史』〕
2月に日露問題は談判不調、国交断絶となり、先行き不安から株価は大崩落となった。
仁川・旅順の第1戦に我が海軍が大勝を得たことから、幾分立ち直りを示したものの、古今未曾有の大戦で、終局の見通しもつかず、国債の募集・増税による金利の上昇もあって気迷いを脱しなかった。
だが、年末近くになって旅順の戦局の進展から年末大納会はようやく活況となった。〔参考文献『名古屋証券取引所三十年史』〕
日本陶器は明治37年(1904)1月1日に、愛知郡鷹場村則武(現・名古屋市西区則武新町3‐1‐36)で設立された。
日本陶器の創業者は、森村市左衛門という。
幕末の動乱期、御用商人だった森村市左衛門は、鎖国が解かれた日本から大量の金が海外へ流出するのを目の当たりにした。福澤諭吉から、「金を取り戻すには、輸出貿易によって外貨を獲得することが必要だ」と説かれた市左衛門は、国のため自ら海外貿易を始めることを決意した。そして明治9年、東京銀座に貿易商社「森村組」を創業、弟の豊をニューヨークに送って輸入雑貨店「モリムラブラザーズ」を開き、本格的な海外貿易を開始した。
当初の輸出品は主に日本の骨董や雑貨だったが、次第に陶磁器が増え、森村組はその将来性に確信をもつようになった。明治22年、パリで開催された万国博覧会を視察した市左衛門らは、美しく精緻に画付けされたヨーロッパ製の磁器に目を見張り、「この美しい磁器を日本で作りたい」という思いを強くした。
明治37年、ノリタケカンパニーの前身となる「日本陶器合名会社」を設立し、近代的な設備を備えた大工場を建設した。しかし、操業を開始したものの、生産を軌道に乗せるまでにはさらに試行錯誤の年月を要した。遂に日本初のディナーセットを完成させたのは、10年後の大正3年(1914)のことだ。アメリカへ輸出された日本製の洋食器は大変な売れ行きで、やがて「ノリタケチャイナ」の名で世界中に知られるブランドへと成長していった。〔参考「ノリタケカンパニーリミテド」のウェブサイト〕
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