明治34年(1901)は、恐慌が続いていた。1月23日に桑名の百二十二銀行が支払い停止に陥り、名古屋の銀行も資金貸付に警戒感を強めた。
10月には、アメリカでの外債募集が不成立だったことが伝わり、株式が大暴落した。名古屋株式取引所の市況は、恐慌状態で、売買高は124千株で、前年比0・4だった。2、3銀行の破綻から恐慌状態となり、経済界は不況に沈み、市況は低迷した。
こんな状況の下でも、着実に力を付けていた名古屋商人もいた。繊維のタキヒヨーだ。タキヒヨーこと、滝兵右衛門商店は、四代目が幕末から明治初期にかけた激動期を見事に乗り切り、名古屋で一番の繊維業者になった。
その四代目の子で、五代目になったのは滝信四郎だ。この信四郎は傑物だった。信四郎は家督を嗣ぐと同時に、店内の制度を一新し、経営を近代化した。
信四郎が力を入れたのは、店員の生活改善だった。それまでは個人経営だったので、滝家と店員で構成され、階級は支配人・別家・一般店員・見習いという4つに分かれていた。大多数を占める一般店員と見習いは、住み込みで、給食付きだった。
信四郎は、このような丁稚奉公の制度を好まなかった。年季奉公式の手当だったのを、月給制に改め、しかも支給額を倍にした。そのほか、利益決算が年3回あり、その都度賞与が店員に配られた。
これら一連の改革の中で、特に力が入っていたのは服装だった。当時の名古屋の商家では、織物問屋の店員はやや派手な服装を着ることが多かった。特に番頭になると、羽織を着ることができるので、若手の憧れだった。
ところが、信四郎は、逆に地味な筒袖の着物と決めた。それも店員のみならず番頭に至るまで徹底した。おかげで名古屋では、筒袖の人を見かけると、滝兵の店員だと一目で分かった。この質素な服が、滝兵の信用を高めることになったという。
この五代目信四郎は、亡くなる前に「遺訓29カ条」を遺した。その内容は「神を敬い、祖先を崇むる事」「質素節約を旨とする事」「奉公心をもって社会恩に報ずべき事」「投機心を抑制する事」など深い教えに満ちている。
この「瀧家五世御遺訓」は、今もタキヒヨーで額に入って飾られている。
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