この明治30年(1897)頃、名古屋に一つの財界人サロンができた。「九日会」という名前だった。毎月9日に参集して親睦を図り、官僚の送別会も行うという平和的なものだった。だが、財界の有力者がズラリと並んでいたところから、自ら強い影響力をもつようになった。
加入していたのは、旧徳川家に恩顧のある御用達商人と、近在出身の繊維商人だった。伊藤次郎左衛門、岡谷惣助という2人を中心にして、そのほかに滝兵右衛門(タキヒヨー)、瀧定助(瀧定)、鈴木摠兵衛(後の材惣木材)、伊藤忠左衛門(由太郎。別名川伊藤家といい、四間道に残っている)、小出庄兵衛(後の丸栄につながる)、森本善七、近藤友右衛門(信友)、神野金之助(名古屋鉄道につながる)など20人近く入っていたようだ。
例会は、主に河文が会場になったが、御納屋(現・丸の内3‐16。星野書店本部)も使われた。御納屋は徳川家の賄い方を務めたこともある名門料亭だった。
この九日会は、単なる親睦会という主旨ではあったが、財界の新興勢力に対抗するという目的を、暗に有していた。特に〝緊張〟が強かったのは、奥田正香の率いる奥田派との関係だった。奥田は商工会議所の会頭を務めるドンだったが、自らが創業者で野性的な人物だったから、互いにけん制し合うことが少なくなかった。
また、この九日会は、明治42年に福澤桃介が名古屋電燈の株を買い占めて、名古屋に殴り込みをしてきた際にも、大きな抵抗勢力となって立ちはだかった。
昭和8年(1933)には「旭会」と改名した。
後年、この九日会は、名古屋は閉鎖的だと批判される体質も作ったといわれる。
御園座ができたのも、明治30年(1897)だった。
御園座は5月17日に開場した。柿落し興行は、初代市川左團次を筆頭にした一流の役者が勢揃いした。凄まじいほどの盛況振りで、劇場内はつま先立ちになり、入場できなかったお客様も、帰りかねて劇場の前に人だかりができていたそうだ。
御園座の創立者は、長谷川太兵衛で「東西に負けない、一流の劇場を名古屋につくりたい」という一念で創った。当時の名古屋には、千歳座(南桑名町)、新守座(本重町)、音羽座(南伏見町)、宝生座(大須)、末広座(末広町)などがあったが、東西の最新型の劇場とは比べ物にならなかった。
御園座は、目を見張るようなモダンな建築物で、開場前から、名古屋市民が期待で胸を大きく膨らませた。
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