日清戦争の勝利は、日本の存在を欧米列強に認識させた。
経済面では、朝鮮の市場を独占し、蘇州の開放や、揚子江沿岸航路権および商工業上の特権を獲得した。これにより清国の市場確保にクサビを打ち込んだ。このおかげで日本は、企業勃興期を迎え、綿紡績をもって代表される資本主義を確立することができた。
経済は、明治28年(1895)になると、3月頃から景気が回復に向かった。下半期になるとはっきりと好況を呈するようになり、戦勝特需に沸くようになった。諸事業が勃興し、投機熱が高まり、株式売買が増えた。生糸の輸出が大きく伸びた。諸物価や賃金は高騰し、さらに景気が過熱した。
名古屋株式取引所の株価は、明治27年に低調を極めたが、28年に入ると、日本の勝利が明白になったので、活況を呈した。28年の売買高は494千株で、前年比3・32倍になった。4月に下関講和条約が調印された。その後で三国干渉による混乱はあったものの、総じて好調に推移した。〔参考文献『名古屋証券取引所三十年史』〕
名古屋商工会議所は、明治14年(1881)に設立されたが、当初、桑名町の加藤庄兵衛という味噌屋の座敷を借りていた。設立当初から間借りで、移転を繰り返したが、経済の発展に伴い事務も繁多となり、手狭な事務所では大変不便であったことに加え、大都市の商業会議所としてその面目を発揮するため、自らの所屋をもつことが必要だと建設計画を進めていた。
そこで栄町7丁目(現・市バスターミナルの場所)に会館を造ることになった。明治28年の総会で起工を決し、29年に完成した。
完成した新所屋は、本館が木造2階建てで135坪、議事堂が西洋造の平屋建てで139坪、附属建物35坪だった。竣工するやいなや、様々な集会場所として大広間の利用は非常に盛んで、広間が足らなくなるほどだった。
名古屋商業会議所の大広間を舞台に呱々の声をあげた企業もたくさんある。明治29年には、愛知銀行創立総会、日本車輌製造創立総会などが行われた。
この会館の建物は、現在、東区筒井にある建中寺に移築されていて、徳興殿という名称になっている。国の登録有形文化財。
名古屋商業会議所は、大正10年(1921)に大池町へ移ることになるが、それまでの四半世紀の間「栄町の商業会議所」として幾多の業績を残した。 〔参考「名古屋商工会議所」のウェブサイト〕
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