3月に、ロシアのボリシェヴィキ政権がドイツと単独講和し、戦争から離脱した。日本、イギリス、アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府に対抗する皇帝派を支援するため、革命軍によって捕らわれたチェコ軍団を救出することを口実にロシアへの出兵を決めた。シベリア出兵には8月、日本、アメリカ、イギリス、カナダ、イタリアが参加した。9月には、チタを占領した。
このシベリア出兵は、名古屋城に本拠を置く陸軍第3師団も参戦した。第3師団は大正7年(1918)8月24日に動員が下令され、9月に名古屋市民の盛大な歓呼の声に送られて勇躍征途についた。平壌、奉天、長春を経て、シベリアに到着した。
『第三師団戦史』には、「シベリアは、革命以来、粛清や弾圧の嵐が吹き荒れ、経済恐慌も激しさを加え、露国貨幣は暴落し、風紀は紊乱し、掠奪、強盗、強姦等がちまた横行していた。我が第3師団は、将兵の軍規が極めて厳正で、連合軍の模範であった。露国一般民衆は、日本軍の駐留を心から願うほどであった」と記されている。
シベリア出兵のニュースは、一方で、日本国内に大きな社会不安を引き起こした。米商人・地主らの投機が空前の米価高騰をもたらし、出兵宣言の翌日の8月3日に富山県の主婦たちの起こした米騒動が、各地に飛び火して、全国的な大暴動となっていった。そのさなか、日本軍は出兵の先陣を切ったのである。
日本には、この機に乗じて東部シベリアに日本の傀儡政権を樹立し、それを拠点に北満州を日本の支配下に置こうとする意図があった。
〔参考文献『第三師団戦史』〕
ドイツは経済的、社会的な混乱が頂点に達していた。ドイツは敗北を認識し、9月、アメリカのウィルソン大統領に講和交渉の要請をした。反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。ドイツ海軍は、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは拒否した。11月になると処罰に不満をもったキールの水兵らが反乱を起こした。
11月9日、ドイツ皇帝はオランダに亡命し、後日退位を表明した。帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。これがワイマール共和国である。休戦交渉は共和政政府によって引き継がれ、11月11日に軍事行動は停止された。こうして第一次世界大戦が終了した。
名古屋では、11月15日、休戦条約成立祝賀会を、鶴舞公園において開いた。名古屋市長の式辞、愛知県知事の祝辞があり、次に関係方面へ祝電を発し、提灯行列を行った。
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