ところで、この江戸時代の後期において、奉公人はどんな風に働いていたのだろうか?
それを垣間見ることができる論文を名古屋市博物館の種田祐司氏がまとめてくれているので、それを紹介しよう。種田祐司氏は、いとう呉服店の奉公人に関する資料を丹念に調べて発表されている。
奉公人は、就職するにあたって、奉公人請状(身元保証)が必要だった。請状は、奉公人の年季(雇用期間)を10年間などと定め、その間にどのように働かされようとも不服がないこと、奉公人が逃亡した場合は探し出し、どのような処置があろうと不服がないこと、金品を持ち出して逃げた場合は弁償すること、などが記されていた。
奉公人はほとんど男性であり、女性はわずかだった。雇い入れされた年齢は、11歳から13歳が中心だった。尾張・三河・美濃の地域における農家の次男三男が多かった。
奉公人の給与は、次のように異なっていた。
年季10年の男性奉公人=若年で雇用された男性奉公人は、最初の数年は給金といえるほどのものはなく、せいぜい小遣い程度だった。ただし、仕着世といわれる着物の支給はあった。仕着世は毎年1月と7月に支給された。
年季半年の女性奉公人=3月と9月に雇用され、雇用期間は半年間だった。給金は、半年間でだいたい5貫文から6貫文だった。天保時代は、1両=6貫文だったので、半年間で1両だった。
年季1年の男性奉公人=給金の水準は、前述の女性奉公人とほぼ同じだったようだ。1年分だから、給金はその倍だった。
また、京都店では年季が到達しても、そのまま勤めることが多かった。いわゆる定年はなかったが、実際には数十年勤めるのは希で、採用後間もなく辞める者が後を絶たなかった。退職の理由は、死亡が半分を占めていた。当時の奉公人の食事は粗末なもので、住環境も劣悪だったので、脚気などの病気になったり、死去する者が多かった。
実家を継ぐために退職した者もいた。次男三男が多いので、家督を継ぐ立場になかったが、長男が死んだりすると、代わりに相続した。
それから、退職にあたっては、憐愍金という名の退職金を支給していた。その額は、勤続年数別に次のような感じだった。
10年未満=勤続年数×0・5両
10年以上=勤続年数×0・5両から1両
15年以上=勤続年数×1両
[参考文献『名古屋市博物館 研究紀要 第23巻』「いとう呉服店の奉公人雇用について」種田祐司・『近世名古屋享元絵巻の世界』林菫一編 清文堂出版 2007年 「いとう呉服店京店奉公人の退職について」]
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