斉朝の治世では、御用達商人を格付けする制度が藩によって定められた。その最高位は「三家衆」といった。その3つの商家とは、伊藤次郎左衛門家のほかに、質商で米穀商でもある信濃屋・関戸家、納屋町の米穀商内海屋・内田家のことだった。
春日井郡小木村から名古屋へ移住した関戸家は、天明7年(1787)町奉行により、かねて停止中だった延米の取り扱いを許可され、仲買人の支配を命じられたことで、米穀商として発展した。
内田家は、知多郡内海村の出身。初代内田忠蔵が享保年間(1716?1736)、名古屋に出て納屋町に移ってきた。米屋を営み内海屋と称していた。成功して富を築き、その子忠治、孫忠蔵の代に御用達商人に取り立てられた。天保11年(1840)の名古屋長者番付では東の大関に位置し、名古屋第一の富商となっている。御用達商人として尾張藩の財政に多大の貢献をしたが、幕末に至り衰退した。
御用達商人という制度は、尾張藩の中期以降、藩の財政難を救い、信用を失った藩札の信用維持に協力させるために作られた制度だった。従って、調達金を藩に上納するだけの資産があるかどうかで認定されるようになっていた。御用達商人の中で最高位なのは、前述の「三家衆」だが、その次の格として「除地衆」「十人衆」という制度もあった。
[参考文献『名古屋市史 地理編』(中新経済新聞社)・『名古屋商人史』(林董一 中部経済新聞社)]
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