明治時代は、富豪の番付がよく公表されていた。手元にあるのは明治23年(1890)のものである。それは「勧進元 伊藤次郎左衛門」となっていて、伊藤家が別格であったことが分かる。それから「行司 滝兵右衛門」「頭取 近藤友右衛門」「頭取 堀部勝四郎」「大関 関戸守彦」「関脇 中村与右衛門」「小結 岡田徳右衛門」など相撲にみたてた〝要職〟が並んでいる。
この明治23年という時期は、日清戦争前であり、いってみれば産業革命前の前夜である。この顔ぶれを見てみると、江戸時代からの御用達商人が上位陣をまだ占めているのがよく分かる。
ところで当時の富豪はどこにいたのだろうか? この富豪番付は、居住している町名が載っている。そこで上位陣100人を選んで、どんな所にキーパーソンがいたのかチェックしてみた。使ったのは明治43年の名古屋地図である。
●本町
お城の玄関である本町は、江戸時代に名古屋の中心地であった。本町は、明治時代の地図を見ると、5丁目まであった。県産業貿易会館の所は、江戸時代に評定所、明治時代に憲兵隊本部だった。同西館の所は、江戸時代に町奉行所、明治時代に控訴院だった。両口屋も江戸時代からここにあった。富豪番付100人の中では、3人がここにいた。
●玉屋町
本町の南側は「玉屋町」と呼ばれていて、4丁目まであった。 富豪番付の中では、8人がここにいた。
●鉄砲町
玉屋町の南側は「鉄砲町(てっぽうちょう)」と呼ばれていた。岡谷鋼機の岡谷家は、1600年代から、ここを拠点にしている。
●長者町
長者町は、伝馬町を境にして、カミとシモに分かれていた。富豪番付の中では、上長者町で1人、下長者町で4人がここにいた。
●堀川沿いの大船町と船入町と木挽町
堀川の西側は、伝馬町を境にして、北側が大船町(おおふなちょう)、南側が船入町(ふないりちょう)といった。主に食料品を扱う商人が多くいて、米・塩・油・砂糖・鮮魚などを売っていた。大船町は、伊藤忠左衛門がいた。ここは別名「川伊藤」とも呼ばれていた。旧東海銀行の頭取伊藤喜一郎の実家である。四間道(しけみち:現在の国際センター駅近く)のことである。富豪番付の中では、4人がここにいた。船入町は、堀部勝四郎がいた。堀部は生鯖商で商工会議所の会頭も務めていた。富豪番付の中では、8人がここにいて、川べりに豊かな商人が並んでいた。
堀川の東側は、木挽町(こびきちょう)といった。富豪番付の中では、3人がここにいた。代表的な商人は、材惣木材だ。
●茶屋町
ここは言わずと知れた伊藤次郎左衛門家の創業地である。現在はアイリス愛知が建っている所が、松坂屋のルーツいとう呉服店だった。
●伝馬町
伝馬町とは、桜通の一本南側にある東西の筋である。富豪番付の中では、8人がここにいた。繊維の近藤友右衛門などが代表格である。
●万町
万町(まんちょう)は、桜通の一本北側にある東西の筋で、伏見通を境にして、西側が西万町、東側が東万町といった。東万町は富豪が多くいて、瀧定がその代表格だ。富豪番付の中では、4人がここにいた。
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