後に岡谷鋼機となる笹屋では、寛政6年(1794)、五代目惣助が夫婦で四国八十八カ所を巡る四国ご遍路に旅立った。夫婦が京都まで行った時、思わぬ報せが飛び込んできた。名古屋の店がなんと焼失したというのだ。火元が笹屋でなく、家中に怪我人がいなかったことを確認した夫婦は、なんと「それは不幸中の幸いだ」と安堵し、せっかくだからと旅を続けた。笹屋の後事を任されたのは六代目惣助だった。この時まだ18歳。この六代目惣助が傑物で、その後の笹屋を飛躍させる。
六代目惣助は、主だった番頭達と話し合った末、思い切って焼失前よりも大きな店にすることにした。往還に面して分かれていた南北両店を一つの棟とした。土蔵は、その後増築を重ね、明治には11棟あったほどだから、いかに広大な線引きをしたかが想像できる。この店舗は、その後も風雪に耐え、昭和4年(1929)、近代建築の本店に建て替えられるまであった。濃尾大地震でもびくともしなかったくらいだ。
昭和の新築の際は、なんと敷地を掘ると何トンもの銅製の桶や、小判百枚がざくざくと出てきた。五代目惣助が後世のために残しておいたものだといわれている。
六代目惣助は、事業意欲に燃えていた。当時は各地で特産品の産地が形成され、海路、陸路が整備充実されたことで、それら特産品が全国で販売され始めていた。例えば、海運上重要な拠点だった知多半島の木綿や酒、酢は、その時期「知多木綿」「中国酒」と呼ばれ、全国で流通し始めていた。「瀬戸物」が陶磁器全体の名前になったのも、この頃からだ。
江戸は、農村から人々の流入が続き、膨張していた。江戸に集まる出稼ぎの形態は「年季奉公」という長期滞在と、「冬季稼ぎ」という短期滞在の形があった。寛政期以降は「冬季稼ぎ」が増えた。
こうした中で、六代目惣助は「季節番頭」制度という拡販方法を創造した。笹屋はすでに大坂からの仕入れルートを確保し、中部圏一帯に販路を拓いていた。更なる拡大を目指して、農閑期の農民を販売員として活用しようと考えた。農民相手に出稼ぎを募ったところ、多数の応募があった。臨時販売員になった農民達は、「笹屋」の印を染めた大風呂敷に、商品の見本をくるんで全国各地に売りに出た。
この「季節番頭」制度は、人数も増え、すっかり定着した。お陰で「名古屋に笹屋あり」と全国的に知名度を高めた。
この六代目惣助は、新田開発にも取り組んだ。寛政11年(1799)に、飛島新田開発の許可が藩庁から下りた。広大な敷地であったために、よほど資金力のある富商でなければできない事業だった。笹屋は、この広大な農地を昭和21年の農地改革により買収されるまで所有していた。[参考文献 『岡谷鋼機社史』]
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