碁盤割の町名を復活させよう
名古屋人の多くは、名古屋の歴史に疎い。それは残念なことだ。
名古屋人が地元の歴史に疎い理由の一つに、地名の問題があると思う。昔を彷彿させるような地名がある。例えば、白壁町とか水主町とかの名前を聞くと、昔は何があったのだろうかと想いを寄せたくなるものだ。
そのような由緒正しき町名を最近の行政はいとも簡単に消して、記号化してしまう。特に碁盤割がそうである。碁盤割の町は東西に11列、南北に9列の正方形のブロックを基本としてできていた。東西は筋、南北は通りと呼ばれた。中央部分の10間×20間ほどの広い空地を会所といった。そこには、茶屋町、和泉町、京町、小田原町、伝馬町、下材木町、桑名町、下長者町、鉄砲町、呉服町、大津町など、歴史を感じさせる町名が残っていた。
その歴史ある町名を抹殺してしまったのが昭和41年(1966)の町名変更である。これにより、丸の内とか錦という東京風の地名に変えられてしまった。この蛮行を行った市長は杉戸清氏である。この歴史破壊に対して、市民は行政訴訟まで起こしたと聞く。
作家の故城山三郎氏は、蒲焼町で生まれたそうだ。蒲焼町とは現在の錦3丁目である。蒲焼町は『名古屋市史』の町名由来記によれば、名古屋城築城の折、多くの人々が諸国からこの町に集まってきて、城普請をする人夫を相手とする茶屋、酒、さかななどを売る店が多く建ち並ぶようになった。なかでも蒲焼を売る店が多かったので、蒲焼町と呼ばれるようになったという。
このように蒲焼町は“由緒正しき”町名だったのだ。その町名を行政は「錦3丁目」などという無味乾燥な記号に変えてしまう。町名はいったん消されてしまうと、もう歴史が抹殺されたのと同じ状況になる。
城山三郎氏は「私の育った名古屋は、幾度かの大空襲で焼野原になったあと、満州の曠野で都市計画をやった役人などの手で、戦後はいわば根こそぎ違う町につくり変えられてしまい、私には故郷がなくなった」と悔しがっている。「自分は故郷喪失者である」とも語っている。
昔からの町名をもっと大事にしたいものだ。そうすれば、名古屋人が郷土に対してもっともっと愛着を持つようになるだろう。
そこで提言! 碁盤割の町名を復活させよう。
【著者紹介】
北見 昌朗(きたみ・まさお)
中学の担任が歴史の先生。弥生式土器が専門というだけに弥生時代は延々と―。授業は現代史まで届かず、受験には役立たなかったが歴史好きに。経営者となった今は「歴史に学ぶ経営」がテーマ。『愛知千年企業』は、江戸編、明治編、大正編という3部作。災害や恐慌に打ち克ってきた名古屋商人のド根性ぶりを著す。桶狭間の合戦の武功にどんな恩賞が与えられたのかを調べた『織田信長の経営塾』(講談社)、『武田家滅亡に学ぶ事業承継』(幻冬舎)など著書多数。夢は65歳になったら勇退して全国の史跡を舐め回り、童門冬二氏のように本を書くこと。社会保険労務士。名古屋市出身。昭和34年生まれ。北見式賃金研究所
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