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序文

明治という歴史から学ぶもの

バルチック艦隊を全滅

 明治37年(1904)に開戦した日露戦争の最中、明治38年5月27日午後1時39分、東郷平八郎率いる連合艦隊は、バルチック艦隊を日本海沖にて発見した。東郷に「智謀如湧(ちぼうわくがごとし)」と称された秋山真之は、先任参謀として東郷と共にいた。日本海海戦の幕開けである。

 やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」
とあった。

「よろしい」
真之は、うなずいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとにもってゆくべく駆け出そうとした。そのとき真之は、「待て」ととめた。

 すでに鉛筆をにぎっていた。その草稿をとりもどすと、右の文章につづいて、
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
と入れた。

 わくわくする描写である。いうまでもなく司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文芸春秋)の一節だ。国民的小説とまで言われる名著である。

その時名古屋は―戦勝の熱気につつまれる

新愛知新聞 明治38年
明治38年5月29日の新愛知新聞。日本海海戦の勝利を伝えている

 日本海での戦勝の報せが届いた時、名古屋市民は安堵と喜びに沸いた。その喜びは、現在の名古屋人では想像できないものだろう。幕末以来、ロシアという存在は、日本人にとって最大の恐怖であった。この大勝利に国民は歓喜した。高揚ぶりを伝える、こんな川柳が残っている。

「大勝利見て来たように湯で話し」
「号外屋己が手柄のように売り」

 名古屋市民は3千円余りの大金を投じて、凱旋門を建てた。それが表紙の写真である。凱旋門は、広小路通の本町西角に建てられた。「凱旋門」という書は徳川義礼によるものだった。

 陸軍第三師団は、市民が沿道で熱狂的に出迎える中、明治39年1月に名古屋に凱旋した。〔参考文献『歴史写真集 名古屋再発見』服部鉦太郎 中日新聞社〕

戦勝で頭がおかしくなった日本人

 日本海で完勝という報せが届くと、国内では戦勝に浮かれる風潮が強まった。ロシアとの戦争は、運良く勝っただけなのに、国民は勝った勝ったと浮かれ始めてしまった。特に軍人は権勢を謳歌した。

 戦勝は、日本人の頭をおかしくしてしまった。我を忘れてしまったのだ。

 日本海海戦でのロシア側の死者は約五千、それに比べ日本側の戦死者は百数十人だった。しかし、戦勝後すぐに戦艦三笠の火薬庫が爆発し、339人の死者を出していた。『坂の上の雲』の中で、司馬遼太郎は真之の心情を描きながら、日露戦争後の日本の危うさを匂わせている。

 あの海賊は天佑にめぐまれすぎた。真之の精神は海戦の幕が閉じてからすこしずつ変化しはじめ、あの無数の幸運を神意としか考えられなくなっていた。というよりも一種の畏怖ふが勝利のあとのかれの精神に尋常でない緊張を与えはじめていたのだが、この旗艦三笠の沈没は日本に恩寵をあたえすぎた天が、その差引勘定をせまろうとする予兆のようにおもわれたのである。

 日本は明治維新後、ロシアなどの列強から国を守るので精一杯だった。ところが戦争に勝った途端、そのような謙虚さを無くしてしまった。

 この戦争の後の日本人は驕り高ぶりが激しくなり、我を忘れて国際的な孤立に陥り、破滅へと向かうことになる。

東京で株価大暴落

 日本は日露戦争の後の明治39年(1906)に大好況になった。巷には、戦争成金の姿が目立つようになった。料亭に遊びに行ってはお金をばらまいて芸者に拾わせた。いざご帰還となっては、暗くて履物が見えにくいといってお札に火を点けた。そんな馬鹿者が溢れ出した。

 だが、すぐお灸を据えられることになる。明治40年1月、東京株式が大暴落し、凄まじい恐慌に陥った。まさに山高ければ、谷深かし、だった。その後経済は浮揚することなく、沈滞と低迷の長いトンネルに入っていくことになる。巷では倒産が相次ぎ、失業者の群れでいっぱいになった。景気回復は、第一次世界大戦まで待たなければならなかった。

歴史は80年周期で繰り返す

 「歴史は繰り返す」といわれるが、著者は「80年周期で繰り返す」という持論を持っている。それは日本の破滅(Xデー)を起点にするとよく分かる。昭和20年(1945)の80年前は慶応元年であって、幕末だった。破滅(Xデー)は、なぜか80年周期でめぐってくるのだ。

 今の日本は、歴史を語る際によく「戦後60年」という表現をする。だが、私はそれよりも「開港後150年」という表現をおすすめしたい。そのほうが日本歴史の大きな流れを読み取りやすい。その「開港後150年」(開港をした安政5年=1858年が基準)という単位で考えれば、前後数年のズレはあるが、日本史は次のように解説できる。

 ●謙虚に登り坂 幕末、日本人は欧米列強から侵略される恐怖で脅えた。だから必死で欧米の知識を学び、富国強兵に努めた。そして、最大の脅威であるロシアとの戦争に勝った。

 ●驕って下り坂 日本人は、日露戦争で勝った。ただ運がよかっただけのことだったのに、まるで自分たちの実力で勝ったかのように錯覚した。世界の5大国の一つで一等国だと自らを勘違いしてしまった。そして後年、アメリカを相手に無謀な戦争に踏み切り、国を滅ぼすことになった。

 ●謙虚に登り坂 敗戦で焼け野原になった日本。「一億総懺悔」といわれる中で、国民は自信喪失に陥った。庶民は、毎日、食うことで必死だった。そして猛烈に働き、復興を成し遂げた。

 ●驕って下り坂 日本製品が世界中を席巻した。日本人は働き過ぎだと世界から批判された。日本人自身も、一流の先進国の一員になったと自惚れ、自らを錯覚してしまった。その後、中国や韓国のようなハングリー精神旺盛な隣国に追い上げられ苦境に立たされることになった。

 このように日本史を振り返れば、この国は「頑張る登り坂40年」「自らを勘違いしてしまった下り坂40年」の繰り返しだった。壊してしまう要因は、もちろん〝驕り〟である。過去の成功体験のおかげで、自らを勘違いしてしまうのだ。

 そうなると、気になるのは“将来”である。このあたりは別書『日本は80年周期で破滅する』(講談社)をお読み頂きたい。〝予定〟では、平成37年(2025)に破滅(Xデー)が再びやってくることになっている。

トヨタ自動車を再建した男・石田退三が憂う日本の将来

 石田退三という人物を今さら紹介する必要はないが、念のために解説すると、昭和24年(1949)のトヨタ自動車工業の経営危機に際して、豊田喜一郎からバトンを渡され、その後見事に再建を成し遂げた中興の祖である。その退三は、若い頃に佐吉に直接薫陶を受けた体験をもつだけに「佐吉翁はこうおっしゃった」という言葉が出てくる。

 その退三が日本の将来を嘆いた言葉が残っている。長いが、興味が持てるので、ここに紹介したい。

 「昨今の日本人のたるみようをみておると、どうにもこうにもハラの虫がおさまらん。まったく、どいつもこいつもなっとらんわ。不況がくるとオタオタするし、ちょっと景気がようなればきのうのくるしみを忘れて、レジャー三昧にうつつをぬかす」

 「本来、この国には人間以外のなんの財産もないんですよ。資源はなし、土地はなし、食糧もない。ないないづくしでどうにかやって来られたのは、佐吉翁に代表される比類のない勤勉さがあったればこそなのだ。それがどうです。今の日本は1億挙げて遊ぶことばっかり考えておる。ワシは心配なんですわ。どうにも気がかりでならん」

 いかがだろうか? 退三がこの『石田語録』を著したのは、昭和46年である。日本がいよいよ高度成長に乗る始まりの頃だ。本書を著している41年前だ。残念ながら、憂慮は現実のものとなりつつある。

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序文

『坂の上の雲』を背景に明治の名古屋商人の奮闘ぶりを描く
明治という歴史から学ぶもの
「自分の城は自分で守れ!」明治の名古屋商人に学ぶ生き残り5カ条

第1部 明治前期

第2部 日清・日露戦争時代

第3部 明治後期

第4部 「旧町名」を語りながら