第2部 江戸時代初期の部/その1、家康が大坂の陣で豊臣を滅ぼす

その時、名古屋商人は

いとう呉服店の歴史・初代は信長のお小姓

 松坂屋の創業家である伊藤家の始祖祐広は、もともと信長の家臣だった。蘭丸といえば、織田信長の家臣森蘭丸が有名だが、祐広も小姓役として信長に仕え、蘭丸を名乗っていた。800石を領していたということだから、信長からも期待されていた人物だった。

 蘭丸という名前は、祐広の子である祐道も名乗っていた。親子二代の蘭丸で、どちらも信長が名付け親になっている。信長は、蘭丸の名前がお気に入りだった。

 商いを始めたのは祐道だから、彼がいとう呉服店の初代となる。伊藤祐道は、慶長16年(1611)に、清須から新しく城下町を築きつつあった名古屋に移り、名を源左衛門と改め、名古屋本町で呉服小間物商を始めた。これが、松坂屋の前身である「いとう呉服店」の始まりだ。祐道は、商人となったとはいえ、元は武士。慶長20年(1615)に大坂夏の陣が起こるや義によって豊臣方に加わり、戦死してしまった。いとう呉服店は、祐道の戦死により家業が中絶した。

 しかし、祐道の遺児祐基は呉服小間物問屋を再興した。再興した年は明らかではないが、彼が20代の頃だ。そして商いが順調に発展したためか、万治2年(1659)には茶屋町に店を構えた。間口は四間だった。ところが、その店もわずか2カ月後、万治の大火で類焼した。

 普通ならここでへこたれるものかもしれないが、彼は直ちに衣類や古着を原価に近い値段で売り出して、大成功をおさめた。災い転じて福となす、という感じだった。これがいとう呉服店の薄利多売の原点になった。[参考文献『松坂屋50年史』]

いとう呉服店があった茶屋町という地域

 いとう呉服店の本店は、江戸時代を通じて「茶屋町」にあった。茶屋町というのは現在の地図には載っていない。名古屋市中区丸の内2丁目で、現在アイリス愛知になっている。ここは名古屋城と熱田神宮を結ぶ本町通沿いにある当時の一等地だ。

 いとう呉服店は、創業以来、本町と交差する茶屋町筋に店を構え、少しずつ店を大きくしていった。店は火災で全焼したこともあったが、呉服店は寛政元年(1789)に再興されて、昭和初期まで保存されてきた。しかし太平洋戦争での空襲で焼失した。

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