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第5部 特別インタビュー

タキヒヨー再建 その時私は
――タキヒヨー元社長 伊藤是介

北見の先輩記者のことを懐かしがる是介氏

タキヒヨー元社長、伊藤是介氏タキヒヨー元社長、伊藤是介氏

北見 初めまして、北見昌朗と申します。私は、以前中部経済新聞社で記者をしていて、その頃に伊藤是介様のご評判をかねがねお聴きしていました。お会いできて光栄です。

是介 へえ、中経の記者でしたか。中経の記者には昔お世話になった方がいっぱいいますよ。

北見 実は私の先輩で、丸谷英司という人がいます。丸谷から、是介さんのお話をよくお聴きしていました。丸谷のことは、もうご存じないですよね?

是介 丸谷さんのことは、よく覚えています。彼は東海銀行の記者クラブにいて、それこそ毎日のように突撃取材を受けていました。その後退社したと聞きましたが、丸谷さんは、実力のある記者だった。

北見 丸谷を覚えていて下さったのですか? 

是介 当たり前です。忘れられない人です。

北見 実はもう亡くなりました。何年も前です。

是介 そうだったのですか。

オイルショックで打撃を受けたタキヒヨー

北見 ところで今日、お伺いしたのは、タキヒヨーの再建物語をお聴きするためです。是介さんは、話によりますと、東海銀行の頭取レースで先頭を走っていたとか。そのような方がなぜタキヒヨーに移られたのですか? そのあたりの経緯から教えて下さい。

是介 私は頭取候補だったことはありません。それは新聞記者がいっていただけです。当時私は筆頭常務取締役で、本店営業部長だった。その主力の得意先がタキヒヨーだった。

北見 オイルショックの頃ですよね?

是介 日本経済は、オイルショックの打撃で深刻な不況に陥っていた。タキヒヨーも例外ではなく、昭和50年(1975)から52年(1977)にかけて経営不振に陥っていた。タキヒヨーはそれまで地方の繊維問屋を主な取引先にしていましたが、新規に百貨店も開拓した頃でした。その積極的な営業姿勢が裏目に出て、大量の在庫を抱えてしまった。私は東海銀行の本店営業部長として、在庫を処分するように何度も注意した。だが在庫整理は遅々として進まなかった。

北見 江戸時代からの名門問屋のタキヒヨーでも、そんなピンチに陥るということは、ほかにも大変なところもあったのでしょうね。

身震いしながらタキヒヨー行きを受諾

北見 タキヒヨーに移るという決定はいつだったのですか?

是介 頭取から「タキヒヨーに行ってくれ」と頼まれたのは、忘れもしない昭和53年(1978)3月16日のことでした。当時、私は55歳だった。

北見 その命令を受けたのですか?

是介 私は「はい、わかりました」と即答した。

北見 どんな心境で受けたのですか? 

是介 それこそ背筋が寒くなり、身震いした。だが、オレがいかなければダメだと思った。

北見 東海銀行の役員という立場を棒に振るのは惜しくなかったですか?

是介 私は銀行員だったが、正直、銀行の仕事が性に合わなかった。だから辞めることに未練はなかった。私は5月に東海銀行を辞めて、タキヒヨーに入った。

タキヒヨーの素晴らしさを実感

北見 実際に入ってみて、タキヒヨーはどんな会社でしたか?

是介 タキヒヨーに入ってみて改めて分かったのは、素晴らしさだった。調べれば調べるほど、凄いところが多くて、さすが老舗だと思った。タキヒヨーには社訓があった。それは「信用第一 客六自四(まずお客様に喜んで頂くこと) 謙虚利中(謙虚の中に利がある)」というもので、じっくり考えると意味が深く、尊いものだった。

北見 なんといっても歴史が違いますからね。

是介 そう、歴史の重みだった。経営不振に陥ったといっても、タキヒヨーには信用があった。長年築いてきた暖簾の信用は絶大だった。私はまず前掛け商法が必要だと思い、顧客の地方問屋を回り始めた。タキヒヨーの社長が来るなんてことは前代未聞のことだったから、顧客は大歓迎して下さいました。

北見 社員も優れた人が多かったのでは?

是介 本当にその通りだった。優秀な人が多かった。さすがに名門といわれただけのことはあった。

北見 社長になった当時のタキヒヨーの経営状況は?

是介 私は社長に就任すると同時に再建に乗り出した。再建にあたり、私は赤字部門を切り離し、そこは銀行出向者が責任を持つことにした。不採算の子会社は処分した。そして利益の出ていた本業を残し伸ばすことにした。昭和54年(1979)の決算は、14億円の経常利益を出した。

労組との対決と信頼関係

北見 経営危機に陥ると、社員との関係も難しいでしょうね?

是介 労組との対決は凄かった。特に昭和53年(1978)の年末闘争で、労組はスト権を確立して、いよいよ明日スト決行という状況だった。私は、労組に対して言い放った。「やるならやってみろ」と。

北見 へえ、やるならやってみろですか?

是介 私は労組に対して、言った。「出せるものなら出している。金がなければどうしようもない」と。そしてストライキを覚悟して「管理職は電話にへばりつけ」と号令を飛ばした。

北見 労組も、ビックリしたでしょうね?

是介 私は団交(団体交渉)で「来た以上は再建する」と言い切った。

北見 ……

是介 私は、覚悟を決めていた。絶対に再建しなければならなかったからだ。タキヒヨーが潰れたら、尾州産地などに甚大な影響がある。

北見 それで、ストは?

是介 労組はストを土壇場で中止した。私は毎月決算書を公開して、労組に説明することも約束した。それ以来、労組は再建に協力的になった。

北見 随分腹の据わった対応ですね。

進む再建

取引先のキンヨー会で協力をお願いする伊藤是介社長(当時)『創Dream250』より取引先のキンヨー会で協力をお願いする伊藤是介社長(当時)
『創Dream250』より

北見 経営再建はどのように進んだのですか?

是介 タキヒヨーの再建は順調に進んだ。昭和56年(1981)には当年度黒字になった。昭和57年には累積損失を消し、再建を完了した。昭和58年には10億円の経常黒字を出した。

北見 桜通に面した本店ビルの売却も大きかったのでは?

是介 タキヒヨーの本社ビルは、桜通に面した一等地であり、一際目立つ建物だった。昭和48年に完成しているので、まだピカピカだった。これをいくらで売却できるかが、再建のための課題だった。東京海上が100億円で買ってくれるというのは大変ありがたかった。皆様の予想を超える大きな額で、東海銀行も驚いたぐらいだ。このお陰で再建に弾みが付いた。

滝家への大政奉還

北見 再建を成し遂げた後は、何を考えられたのですか?

是介 再建が完了してから、私がずっと考えていたのは後継問題だった。後を誰にするのか考えていた。社内には、すぐ社長にできる人材がまだ見当たらなかった。そこに飛び込んできたのが現社長の滝茂夫氏だった。当時、滝茂夫氏は高級家具の会社で営業をしていた。その滝茂夫氏は家具を売るために飛び込んできたのだが、その営業力が凄かった。良いセンスをしていた。こういう仕事にはセンスが必要だった。そこでタキヒヨーに入らないかとお願いした。

北見 社長を退いてからは、経営に口出しをしなかったそうですね。

是介 正直いって、70歳で社長を降りた時は、ホッとしたよ。よくここまでやってこれたと思う。後は滝茂夫社長を信じて任せた。

北見 多趣味だと聞いていますが、特にお好きなのは?

是介 歌は好きだ。テレビ愛知で最優秀歌唱賞を頂戴したのは楽しい想い出だ。「唐獅子牡丹」を歌い上げた。

北見 どんな歌でしたか?

是介 「義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界」という歌だ。

北見 ほう、まるで是介様の人生観のような歌ですね。

是介 この歌が好きでね。

北見 ところで今は何をされていますか?

是介 近所の小学生が無事に通学できるように旗を振っている。見廻りをするのだ。日進市の自宅の近くで毎日やっている。

著者のつぶやき

 熱い。あったかい。お会いした時の印象を言葉にして並べればこんな感じだ。まさに「唐獅子牡丹」の世界だ。

 著者の先輩記者のことを覚えていてくれたのは嬉しかった。また「上の人を変えても、組織は強くならない。下の人がやる気を出してくれれば、もの凄く強くなる」という言葉は、印象的だった。もっと深い意味を教えて頂きたいものだ。是介氏は、大正12年(1937)生まれで、87歳。年からは想像もできないほど頭がしっかりしている。歩くのも早い。さすがだ。

 

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